聞こえない・聞こえにくい人々と共に生きる社会へ
私たちの社会は、多様な人々によって構成されている。しかし、その多様性の中で、目には見えない「壁」によって社会参加を阻まれている人々がいる。聴覚に障害のある人々、すなわち「聞こえない・聞こえにくい人々」が直面するコミュニケーションの壁は、その最も根深く、そして深刻なものの一つである。情報の入手、教育、就労、医療、そして日々の何気ない会話に至るまで、音を介したコミュニケーションが主流である社会において、彼らは常に情報の格差と孤立のリスクに晒されている。
静岡県においても、この課題は例外ではない。聴覚障害者がその人らしく、尊厳を持って生きるためには、単なる個人の努力だけでなく、社会全体の理解と具体的な支援体制が不可欠である。この重要な役割を70年以上にわたって担い続けてきたのが、公益社団法人静岡県聴覚障害者協会(以下、静聴協)である。彼らは、手話という言語の普及から、生活に密着した相談支援、そして国や行政に働きかける権利擁護活動まで、まさに聴覚障害者の「声」となり、社会との架け橋となってきた。
本記事では、この静聴協の長年にわたる活動の軌跡とその多岐にわたる事業を、具体的な事例を交えながら多角的に解き明かす。特に、静岡県西部の中核都市であり、独自の先進的な取り組みを進める「浜松市」の事例を特集として深く掘り下げる。行政が主導する条例制定や革新的な講座運営、企業の先進的な雇用事例、そして市民レベルで広がる支援の輪。これらの具体的な姿を通して、地域に根差した共生社会のモデルを探求する。本稿が、聴覚障害者が置かれた現状への理解を深め、私たち一人ひとりが共生社会の実現に向けて何ができるのかを考える一助となることを願ってやまない。
静岡県聴覚障害者協会(静聴協)とは?- 歴史と使命
静聴協は、単なる福祉団体ではない。それは、聴覚障害者自身の権利と尊厳を求め、社会を変革してきた運動の歴史そのものである。1950年の設立以来、ろうあ運動の拠点として、静岡県における聴覚障害者の地位向上と生活の質の改善に尽力してきた中核的な組織である。
協会の基本情報
静聴協は、1950年9月23日に「静岡県ろうあ福祉連合会」として創立された、非常に長い歴史を持つ団体である。その目的は、定款において明確に謳われている。
この法人は、聴覚障害者の福祉の向上、社会的自立の促進及び聴覚障害者に対する県民の理解の向上に関する事業を行い、もって県民の福祉の増進に寄与することを目的とする。
この目的を達成するため、協会は静岡市葵区に拠点を置き、会長である藤原基時氏のリーダーシップのもと、約30名の役職員が中心となって活動を展開している。その活動は、手話通訳者の養成・派遣といったコミュニケーション支援から、文化・学習活動、生活支援、そして障害福祉サービス事業まで、極めて広範にわたる。
【静聴協 基本データ】
- 正式名称: 公益社団法人静岡県聴覚障害者協会
- 設立年月日: 1950年9月23日(静岡県ろうあ福祉連合会として創立)
- 法人格取得: 1998年4月1日(社団法人化)、2011年4月1日(公益社団法人へ移行)
- 代表者: 会長 藤原 基時 氏
- 所在地: 〒420-0856 静岡市葵区駿府町1-70 静岡県総合社会福祉会館5階
- 連絡先: TEL: 054-254-6303 / FAX: 054-254-6294
- ウェブサイト: https://www.shizudeaf.com/
組織とネットワーク
静聴協の強みは、その強固なネットワークにある。協会は単独で活動するのではなく、国内外の様々な団体と連携し、大きなうねりを生み出してきた。その組織構造は、聴覚障害者を取り巻くあらゆる課題に対応できるよう、機能的に構築されている。
最上位には世界ろう連盟(WFD)があり、そのアジア地域事務局、そして日本のナショナルセンターである一般財団法人全日本ろうあ連盟へと連なる。静聴協は、東海聴覚障害者連盟の一員として、この全国的なネットワークに属している。これにより、国の政策決定への働きかけや、国際的な情報の共有が可能となっている。
県内においては、静聴協を核として、各地域に根差した「地域ろうあ協会」が組織されている。さらに、青年部、女性部、高齢部といった世代別の組織や、静岡県手話通訳士協会、静岡のろう教育を考える会といった専門的な課題に取り組む団体とも密接に連携している。この重層的なネットワークこそが、きめ細やかな支援と、力強い社会運動を両立させる原動力となっている。
歴史的歩みと功績
静聴協の75年にわたる歴史は、日本の聴覚障害者福祉の発展と軌を一にする。その歩みは、権利獲得のための闘いの連続であった。特に重要な画期を以下に記す。
この年表が示すように、静聴協は単に福祉サービスを提供する受け身の存在ではなかった。1987年の「手話通訳者派遣制度化」は、長年の運動が実を結び、行政を動かした象徴的な出来事である。これにより、手話通訳が個人的なボランティアから公的な制度へと格上げされ、聴覚障害者の社会参加の基盤が大きく前進した。また、1999年の「静岡県聴覚障害者情報センター」の開所は、情報へのアクセス権という現代的な課題に対し、いち早く組織的な対応を開始したことを示している。これらの功績は、聴覚障害者自身が主体となり、社会に働きかけ続けた「ろうあ運動」の賜物であり、静聴協がその中心的役割を果たしてきたことの証左である。
手話から生活、権利擁護まで:静聴協の多岐にわたる活動
静聴協の活動は、その目的である「福祉の向上」「社会的自立」「県民の理解促進」を具現化するため、非常に多岐にわたっている。ここでは、その活動を「コミュニケーション支援」「暮らしと交流」「社会への働きかけと権利擁護」の三つの柱に分けて詳述する。
コミュニケーション支援の核
聴覚障害者にとって、コミュニケーションの保障は生命線である。静聴協は、その中核を担う手話通訳者の養成と派遣、そして手話そのものの普及に力を注いでいる。
手話通訳者の養成と派遣
静岡県では、県内全市町で個人に対する手話通訳者派遣事業が実施されている。この制度を実質的に支えているのが、静聴協と、その運営を受託する静岡県聴覚障害者情報センターである。病院での診察、役所での手続き、学校での面談、あるいは裁判への参加など、生活のあらゆる重要な場面で手話通訳者は不可欠な存在だ。静聴協は、手話通訳者登録試験を実施し、通訳者の質の担保と向上に努めている。県の要綱によれば、派遣される手話通訳者には1時間あたり3,180円の派遣手当が支給されるなど、専門職としての地位を確立するための制度設計がなされており、これは静聴協の長年の働きかけの成果である。
手話の普及啓発
手話が一部の専門家だけのものであっては、真の共生社会は実現しない。静聴協は、県民が広く手話に触れ、学ぶ機会を創出している。その代表例が、各自治体が開催する「手話奉仕員養成講座」への協力である。例えば、後述する浜松市では、静聴協が発行したテキストが参考にされるなど、講座内容の充実に貢献している。また、デフリンピック関連イベントなどで開催される「簡単な手話レッスン」は、子どもから大人まで、多くの人々が手話の楽しさや重要性に気づくきっかけとなっている。
暮らしと交流を豊かにする事業
社会的孤立は、聴覚障害者が直面しやすい深刻な問題の一つである。静聴協は、同じ境遇の仲間と集い、学び、楽しむことができる多様な交流の場を提供している。
世代を超えた交流の場
静聴協のイベントは、あらゆる世代を対象としている。
- 子ども向け: 毎年夏に開催されるは、聴覚に障害のある子どもとその兄弟姉妹が、手話を通じて工作やスポーツ、社会見学などを体験する貴重な機会だ。昨年度は延べ100人の子どもが参加し、多くのボランティアと共に夏の思い出を作った。ここでは、子どもたちが自己肯定感を育み、アイデンティティを確立する上で重要な役割を果たしている。
- 高齢者向け: 赤い羽根共同募金を活用して行われるは、加齢に伴う身体機能の低下や社会からの孤立といった、ろう高齢者特有の課題に対応する取り組みである。同じ歴史を生きてきた仲間との交流は、何物にも代えがたい心の支えとなる。
- 全世代向け: では、キックベースボールやソフトバレーボールなどを通じて、会員・非会員を問わず多くの人々が汗を流す。また、ろう者が主演した映画『アイ・ラヴ・ユー』の上映会など、文化的な活動も積極的に行い、コミュニティの結束を強めている。
学びと成長の機会
交流だけでなく、知識を深め、社会問題を考える場も提供している。毎年開催される「静岡県ろうあ者大会」は、その象徴である。2025年の第75回大会では、「ろう者と聴者はなぜ分かり合えないのか?」という根源的なテーマを掲げ、NHK手話ニュースキャスターとしても著名な小野広祐氏を講師に招いた。このような大会は、当事者が自らの課題を言語化し、社会に向けて発信する力を養う場となっている。
また、では、「就労の場における差別的取り扱いの解決について」といった具体的なテーマで学習会を開催。聴覚障害者が職場で直面する困難について知識を共有し、解決策を探る実践的な取り組みである。
社会への働きかけと権利擁護
静聴協の活動の根幹には、聴覚障害者の人権を守り、制度を改善していくという強い意志がある。その活動は、歴史的な問題から未来志向のプロジェクトまで幅広い。
旧優生保護法問題への取り組み
旧優生保護法下で強制不妊手術が行われた問題は、日本の人権史上、最も暗い影の一つである。最高裁が違憲判決を下し、国が補償法を制定した後も、被害者が声を上げ、適切な補償を受けるためには多くの障壁が存在する。静聴協は、この問題に真摯に向き合い、県と連携して相談窓口を設置し、手話通訳者を配置するなど、被害者が安心して相談できる体制を整えた。さらに、提訴から補償法制定までの6年間の闘いの記録をまとめた『静岡県聴覚障害者強制不妊手術調査委員会活動報告書』を発行。この122ページに及ぶ報告書は、歴史の真実を後世に伝え、二度と過ちを繰り返さないための重要な資料となっている。
東京2025デフリンピックへの貢献
2025年11月、聴覚障害者のための国際的なスポーツの祭典「デフリンピック」が、100年の歴史上初めて日本(東京)で開催される。静岡県もマウンテンバイク競技の会場となるなど、開催地の一つとして重要な役割を担う。静聴協は、この歴史的な機会を捉え、県民の理解と関心を高めるための啓発活動に積極的に関わっている。例えば、開催100日前には、県と協力して大規模なイベントを企画。デフアスリートによるトークショーや、VRによる聞こえ方の体験、手話レッスンなどを通じて、多くの県民にデフスポーツの魅力と手話の重要性を伝えた。これは、スポーツを触媒として共生社会の実現を加速させる、未来志向の取り組みである。
防災対策
災害大国である日本において、災害時要援護者である聴覚障害者への情報保障は喫緊の課題である。サイレンの音、避難を呼びかける音声情報が届かない彼らにとって、情報の断絶は命の危険に直結する。静聴協は、この問題を長年訴え続け、行政の防災計画に聴覚障害者の視点を反映させるよう働きかけている。後述する浜松市の事例にも見られるように、地域防災訓練への手話通訳者の配置は未だ十分とは言えず、参加率の低さが課題となっている。静聴協は、こうした現場の課題を吸い上げ、FAXやメール配信といった代替的な情報伝達手段の確保や、避難所でのコミュニケーション支援体制の構築を求めている。
【キーポイント】静聴協の活動の三本柱
- コミュニケーション支援: 手話通訳者の養成・派遣という制度的基盤を支え、手話奉仕員養成講座への協力などを通じて手話の裾野を広げる。
- 暮らしと交流の創出: 子どもから高齢者まで、世代別のニーズに応じた交流の場を提供し、孤立を防ぎコミュニティを形成する。大会や学習会を通じて、自己啓発と連帯を促す。
- 権利擁護と社会変革: 旧優生保護法のような過去の人権侵害に向き合う一方、デフリンピックのような未来の共生社会の象徴を推進。防災など、命に関わるセーフティネットの構築にも尽力する。
【浜松市特集】地域に根差す支援の形と共生のまちづくり
静岡県西部に位置し、政令指定都市でもある浜松市は、聴覚障害者支援において先進的な取り組みを数多く展開している。ここでは、行政、市民、企業がどのように連携し、静聴協の活動とも連動しながら、地域に根差した共生のまちづくりを進めているのかを具体的に見ていく。
浜松市の基本政策と静聴協の関わり
浜松市の取り組みの根幹には、手話を単なるコミュニケーション手段ではなく「言語」として位置づける明確な思想がある。これが、他の施策の基盤となっている。
「浜松市手話言語の推進に関する条例」の制定
2016年4月1日に施行されたは、市の姿勢を象徴するものである。この条例は、手話への理解促進と普及を市の責務と定め、ろう者、市民、事業者がそれぞれの役割を果たすことを促している。市が手話動画で条例の解説を公開するなど、情報発信にも積極的だ。このような条例の存在は、手話学習の動機付けや、公共施設、企業におけるコミュニケーション配慮の意識を高める上で、非常に大きな効果を持つ。
手話奉仕員養成講座の革新
浜松市は、手話を学びたい市民のニーズに応えるため、手話奉仕員養成講座のあり方を大胆に革新した。この背景には、コロナ禍による対面講座の実施困難、希望者増に伴う講師不足といった現代的な課題があった。
そこで市は、株式会社ミライロと連携し、従来の対面講座と並行してZoomを活用したオンライン講座を導入した。この取り組みは、単なる代替措置に留まらない、多くの工夫が凝らされた先進的なモデルとなっている。
【オンライン講座の工夫】
- 遠隔指導の最適化: 電子ボードで学習ポイントを視覚的に示し、ろう講師の表現を正面や横向きなど複数の角度から見せることで、オンライン特有の分かりにくさを解消。
- 参加型学習の促進: ブレイクアウトルームを多用し、受講者同士が相談・練習する時間を確保。対面に近い双方向のコミュニケーションを実現。
- 地域性の尊重: 厚生労働省の標準テキストに加え、静聴協発行のテキストを参考にし、浜松市在住のろう者を講師やゲストとして招くことで、地名など地域固有の手話(方言)を学ぶ機会を提供。「地域の聴覚障害者の手話を大切にして学んでほしい」というメッセージを伝えている。
この結果、浜松市は地理的・時間的な制約を超えて学習機会を拡大し、これまで講座に参加できなかった新たな層の市民を取り込むことに成功した。講師の一人である鈴木義雅氏が「修了された方々とは今も交流が続いており、地域で手話を続けている方もいて、大変嬉しいです」と語るように、この取り組みは単なる知識の伝達に終わらず、地域コミュニティの担い手を育てることにも繋がっている。これは、行政と民間企業が連携し、テクノロジーを活用して地域の課題を解決した好事例と言えるだろう。
市民レベルで広がる支援の輪
行政の施策が「縦糸」だとすれば、市民の自発的な活動は共生社会を織りなす「横糸」である。浜松市では、手話サークルが活発に活動しており、市民が手話を学び続け、聴覚障害者と交流する重要な拠点となっている。
代表的なサークルの一つが「やまびこ会」である。市内複数の場所に支部があり、それぞれ異なる曜日・時間帯で活動しているため、市民は自分のライフスタイルに合わせて参加しやすい。報道によれば、サークルでは手話の学習だけでなく、聴覚障害者との交流を重視しており、生きた手話を身につける絶好の機会となっている。また、浜名区(旧北区)で活動する「細江手話サークルおむすび」のように、サークル活動後に交流会を開くなど、仲間との繋がりを深める工夫をしている団体もある。
こうしたサークルの存在は、養成講座で手話を学んだ人々が、学習を継続し、実践する場として不可欠である。何よりも、聴覚障害者と健聴者が対等な立場で交流し、互いの文化や考え方を理解し合う「出会いの場」としての価値は計り知れない。市民一人ひとりの小さな関心が、こうしたサークル活動を通じて大きな支援の輪へと育っているのだ。
「働く」を支える:浜松市の障害者雇用と企業の挑戦
社会的自立の根幹をなすのが「就労」である。浜松市および静岡県は、国と連携し、聴覚障害者を含む障害者の雇用を促進するための多層的な支援体制を構築している。そして、その制度を活用し、先進的な取り組みを行う企業が地域経済を牽引している。
多層的な雇用支援体制
企業が障害者雇用に踏み出す際の不安を解消し、安定した就労に繋げるため、様々な制度が用意されている。
- ハローワーク: 障害者専門の相談窓口を設置し、求職者と企業をマッチングする。
- 障害者就業・生活支援センター: 就業面と生活面の両方から一体的な支援を行う。浜松市を含む西部圏域は「だだん」が担当している。
- 障害者トライアル雇用: 原則3ヶ月間、試行的に雇用することで、企業と労働者の双方が適性を見極めることができる制度。助成金も支給される。
- ジョブコーチ(職場適応援助者)支援: 専門の支援員が職場を訪問し、障害のある社員への作業指導や、上司・同僚への関わり方のアドバイスを行う。
これらの制度が有機的に連携することで、企業は採用から職場定着まで、一貫したサポートを受けることができる。
先進的な企業事例
浜松市に拠点を置く企業の中には、これらの制度を積極的に活用し、障害者雇用を単なる社会的責任の遂行ではなく、経営戦略の一環として捉える先進的な事例が見られる。
静岡ダイハツ販売株式会社(浜松市中央区): 同社は、障害者雇用の専門部署「推進室」を設立し、精神障害のある人も含め、多様な障害のある人材を積極的に雇用している。特筆すべきは、新たな職務の切り出しである。運転免許を持たない障害者の就労機会を創出するため、複数の営業所をチームで巡回し、営繕・清掃作業を行う業務を新たに設定した。これにより、運転免許の有無という障壁を取り払うと同時に、一人作業ではなくチームで働くことで、互いにフォローし合える環境を構築した。2025年1月時点で、身体障害1名、知的障害5名、発達・精神障害13名の計19名を雇用しており、多様な人材が活躍できる職場づくりを実践している。
スズキ株式会社 高塚工場(浜松市): 世界的なメーカーであるスズキも、聴覚障害のある社員が活躍する職場環境を整えている。聴覚障害のある山下峻矢さんは、インタビューで「周りの人とコミュニケーションをとる時には、口の動きを読み取って理解したり、筆談を使っています」と語る。会社側は、こうしたコミュニケーション上の配慮を行う一方で、「今の仕事は、責任を持って任されているので、やりがいを感じています」という言葉に象徴されるように、健常者と区別なく責任ある業務を任せ、成長を期待している。安全面を最優先に配慮しつつも、過剰な配慮で仕事の範囲を狭めるのではなく、能力を発揮できる機会を提供することが、本人のやりがいと定着に繋がっている好例である。
農業分野の事例(浜松市内): ある農業生産法人では、障害者雇用を前提とした独自の作業システムを構築している。その哲学は「仕事に人を当てはめるのではなく、目の前の人がどうやったらできるようになるか作業のやり方を工夫する」というものだ。
- 指示の具体化: 「苗にちょっと水をかけておいて」といった曖昧な指示ではなく、「10ccの水を与える」というように、誰が聞いても同じように実行できる具体的な指示を徹底する。
- 作業分解と治具開発: 複雑な作業を単純な工程に分解し、誰もが同じ品質で作業できるようにする。さらに、「トレイ洗浄機」や「姫ねぎ定植補助板」といった独自の治具や機械を開発し、個人の能力差をカバーしている。
この企業では、障害者雇用をきっかけに職場全体が活性化し、業務改善が進み、高齢者や女性など、さらに多様な人材が集まるようになったという。障害者雇用が、企業全体の生産性向上とダイバーシティ推進に繋がった、まさに理想的なモデルケースである。
【キーポイント】浜松市の雇用事例が示すもの
- 職務の再設計: 既存の業務に当てはめるだけでなく、障害特性に合わせて新たな職務を「切り出す」(静岡ダイハツ)ことで、雇用の可能性は広がる。
- 具体的・視覚的な指示: 曖昧さを排し、数値や手順を明確にすることで、コミュニケーションの齟齬を防ぎ、誰もが安心して働ける環境が作れる(農業事例)。
- 合理的配慮と対等な期待: 必要な配慮(筆談など)は行いつつも、過保護にせず、責任ある仕事を任せることが本人の成長とやりがいを引き出す(スズキ)。
- ポジティブな波及効果: 障害者雇用への取り組みが、結果的に業務全体の効率化や職場風土の改善、多様な人材の確保に繋がり、企業経営にプラスの効果をもたらす。
もしもの時に備える:浜松市の防災対策
南海トラフ巨大地震のリスクを抱える浜松市にとって、災害時要援護者支援は最重要課題の一つである。特に、音声情報が届かない聴覚障害者への情報伝達は、その生死を分ける可能性がある。
情報伝達手段の多様化
浜松市は、音声以外の情報伝達手段を複数用意している。市のウェブサイトによると、身体障害者手帳を持つ聴覚障害者を対象に、以下のサービスを提供している。
- FAXによる緊急一斉同時通報: 大規模地震発生時などに、避難情報などを登録されたFAX番号に一斉送信する。
- 携帯電話メールによる災害情報配信サービス: 県や市から発表される避難情報や災害関連情報を、登録された携帯電話のメールアドレスに配信する。
これらのサービスは、プッシュ型で情報を届けることができるため、自ら情報を取りに行くことが困難な状況下で極めて有効である。
避難支援の課題と共助のツール
しかし、制度だけでは万全ではない。現場レベルでは課題も残る。市の審議会資料では、聴覚障害者から「地域防災訓練への参加者が少ない。理由は手話通訳者がいないから」という切実な声が上がっている。せっかくの訓練も、情報が保障されなければ参加の意味が薄れ、地域住民との連携も深まらない。今後は、防災訓練への手話通訳者の計画的な配置が強く求められる。
また、公的な支援(公助)が届くまでの間、地域住民による支援(共助)や自らの備え(自助)が重要になる。そのために、浜松市は以下のようなツールの普及も進めている。
- ヘルプマーク・ヘルプカード: 外見からは分かりにくい障害や配慮が必要なことを、周囲に知らせるためのマークとカード。
- 指さしコミュニケーションボード: イラストを指さすことで、言葉が通じなくても意思疎通を図れるようにするツール。
- SOSカード: 聴覚障害者団体などが作成・普及を進める、緊急時に自身の障害や必要な支援を伝えるためのカード。
これらのツールが広く認知され、市民一人ひとりが「何か手伝うことはありますか?」と声をかける意識を持つことが、いざという時の命綱となる。
あなたにもできること:相談窓口と支援への参加方法
共生社会の実現は、誰か特定の人々だけの課題ではない。この記事を読んで関心を持ったあなたが、次の一歩を踏み出すための具体的な情報を提供する。
困ったときの相談先一覧
聴覚障害に関する悩みや支援の必要性を感じたとき、一人で抱え込む必要はない。静岡県内、特に浜松市には多様な相談窓口がある。
- 総合的な相談(県全域):
- 公益社団法人静岡県聴覚障害者協会 事務局
聴覚障害に関するあらゆる相談に対応する中心的な窓口。
TEL: 054-254-6303 - 静岡県聴覚障害者情報センター
手話通訳者の派遣や養成、盲ろう者向け通訳・介助など、コミュニケーション支援に特化した相談。
TEL: 054-221-1257
- 公益社団法人静岡県聴覚障害者協会 事務局
- 浜松市の行政窓口:
- 障害保健福祉課
市の障害福祉施策全般を所管。各種制度の案内や申請受付。
TEL: 053-457-2034 - 各区役所 社会福祉課
より身近な地域での相談窓口。
- 障害保健福祉課
- 生活・経済的な支援:
- 障害年金の相談
聴覚障害は障害年金の対象となる場合がある。専門の社会保険労務士事務所(例: 浜松障害年金サポートセンターなど)に相談することで、複雑な手続きをスムーズに進められる可能性がある。 - 成年後見制度利用支援
判断能力が不十分な場合の財産管理や契約などを支援する制度。浜松市では利用支援や報酬助成を行っている。
- 障害年金の相談
- 子どもの療育に関する相談:
- 聴覚障害児療育相談窓口(静聴協内)
子どもの発達や教育に関する専門的な相談に対応。
TEL: 054-254-6303
- 聴覚障害児療育相談窓口(静聴協内)
支援の輪に加わるには
専門家でなくても、聴覚障害のある人々を支え、共生社会を推進するためにできることはたくさんある。
- 学ぶ:
まずは知ることから始まる。浜松市が開催する手話奉仕員養成講座(対面・オンライン)は、手話と聴覚障害への理解を深める第一歩として最適だ。また、「やまびこ会」などの手話サークルに参加すれば、楽しみながら継続的に学び、実践する仲間を見つけることができる。
- 参加する:
静聴協が主催・協力するイベントに足を運んでみよう。「静岡県ろうあ者大会」や「デフリンピック関連イベント」、「春のスポーツ交流会」などは、多くのボランティアを必要としている。参加者として、あるいは運営を支える側として関わることで、聴覚障害のある人々と直接交流し、その文化に触れることができる。
- 支援する:
時間的な余裕がなくても、活動を支える方法はいくつかある。静聴協の賛助会員になることで、団体の安定的な運営を財政的に支援できる。また、赤い羽根共同募金への寄付も、ろう高齢者交流会のように、具体的な事業に活用される。静聴協のウェブサイトや広報誌をチェックし、活動に関心を持ち続けることも立派な支援の一つだ。
結論:一人ひとりの理解と行動が、共生社会の礎となる
本稿では、公益社団法人静岡県聴覚障害者協会(静聴協)の75年にわたる歩みと、その多岐にわたる活動を概観し、特に浜松市における先進的な地域支援の事例を深く掘り下げてきた。そこから見えてきたのは、揺るぎない事実である。静聴協は、単なるサービス提供団体ではなく、歴史的な権利擁護闘争から、日々の暮らしに寄り添う支援、そしてデフリンピックという未来への希望を紡ぐプロジェクトまで、静岡県の聴覚障害者支援のあらゆる局面において、不可欠な中核的役割を果たしてきた。
そして、浜松市の事例は、共生社会の実現が絵空事ではないことを力強く示している。手話を「言語」と認める条例を礎に、行政が民間企業や市民と柔軟に連携し、テクノロジーをも活用しながら、地域の実情に即した具体的な支援策を次々と打ち出している。企業の現場では、障害者雇用が「コスト」ではなく、新たな価値創造や組織変革の「触媒」となり得ることが証明されている。市民レベルでは、手話サークルが学習と交流の輪を広げ、文化的な相互理解の土壌を育んでいる。これらは、他の地域においても応用可能な、極めて示唆に富んだ先進的なモデルと言えよう。
しかし、課題が全て解決されたわけではない。防災訓練における情報保障の欠如、依然として存在する就労や社会参加における障壁など、やるべきことは山積している。聞こえない・聞こえにくい人々が、他の市民と何ら変わることなく、学び、働き、人生を謳歌できる社会。手話がごく自然に街中で交わされ、情報保障が「特別な配慮」ではなく「当たり前の環境」となる社会。その実現は、静聴協のような専門団体や、浜松市のような先進的な自治体だけの努力に委ねられるべきではない。
最終的に、社会を変えるのは、私たち一人ひとりの意識と行動である。手話に興味を持つこと。イベントに参加してみること。職場で隣に座るかもしれない聴覚障害のある同僚への接し方を少しだけ学んでみること。そうした小さな関心と行動の積み重ねこそが、見えない壁を少しずつ溶かし、真の共生社会を築くための最も確かな礎となるのだ。


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